学園と私
学校長・同窓会名誉会長 古賀 米吉
学園は昭和12年生れの31才、私は明治24年生れの77才。学園は昨年学校法人・後援会・同窓会3者合同によって創立30年の祝典を挙げ、今年はまた前期3者合同で私の喜寿を祝って下さる由、まことに冥加に余る次第である。
学園は当初不測の事態の為に殆ど無一物から出発し、日支事変・太平洋戦争・第2次世界大戦・敗戦・占領等の下をくぐって今日に至った。決して幸運の星の下で生れたわけではない。にも拘らず学園は現在3000名の関係生徒と100名の教職員を有する一大学園に成長し、既に壱万人の卒業生を出し、年々5、600名の高校卒業生を世に送っている。こうなったのも諸君が親しく教えを受けた教職員、諸君の保護者、諸君自身、さらには地域の人々のおかげである。別に僥倖はなかった。
不幸に生れついて苦難の道を歩いた点では、私は学園によく似ている。小学校を振り出しに、教師をしながら2、3の学校に学んで青春の場をいやすことであったが、道ひとすじの教師生活、在外2年を除いて通算55年、その後半は学園との道伴れであった。
多忙に明け暮れ、恥ずかしながら詩歌のたしなみもなく諸芸諸趣味のよろこびもない。いちずに教育を思い経営にいそしんで老いを思うことを怠った。言われてみれば正に70才。今度周囲の人々のご厚意に甘えて祝って頂くことに決意した。世にも稀なる果報者、勿体ない次第である。
昭和25年から42年間使われた図書館
古賀先生の喜寿を祝う
同窓会会長 山本 幸雄(1回卒)
夏もいつしか過ぎ、中秋の感深きをおぼえる候ともなりました。
同窓諸兄も益々お元気の上、大いに活躍のことと存じます。
昨年は母校創立30周年記念事業として、種々の計画が実行され、なかでも御存知のようにわが国、高校中屈指の大図書館が建設されました。諸兄が母校に寄せられました御厚情に更めて謝意を表します。
さて、御存知の方もおありとは思いますがl母校創立30周年記念事業のなかで、常に母校と共にあり、母校の隆盛を身を以て築かれた古賀先生の徳を永久にとどめるために、胸像建設計画がございましたが、先生が強く辞退され実現出来ずに参りました。(これが古賀研究基金として先生方の外遊、或は研究費として非常に有意義に使われております。)
今春古賀先生が喜寿を迎えられ、その期に胸像建設の件を御了承願い、着々と準備がなされて参りましたが、本校同窓の堀川恭氏の手になり、最終段階に入り、この秋いよいよ実現の運びとなりました。
この件につきまして、学園後援会の非常な御努力と御援助を得ましたことを感謝すると共に、同総会としましても出来るだけの協力を尽くしたいと存じております。
学園の今日の隆盛をみる時、先ず第一に頭に浮んで参りますことは、古賀先生のたゆまぬ御労苦でございます。報恩の何分になるかはわかりませんが、形としてお贈りすることは胸像以外にはないと思われます。
たびたびのお願いで恐縮ではございますが、何卒真意をおくみとりの上、別紙趣意書通り御賛同いただきたく格段の御協力をお願いいたします。
私の言葉 ―胸像製作にあたって―
堀川 恭(4回卒)
古賀先生の胸像と相対し、制作に没頭、半歳の時間も束の間、そろそろ完成に近い今日あと暫くの時間の余裕があればと痛感しています。
かって私が在学中だった頃の先生は胸を張り歩く姿はスマートで、話をすれば、襟を正しめるような威厳が印象的でした。
今、先生を眼の前にしてみますと、長い歳月教育に捧げられた真摯な思索が御顔そして御姿に深く美しく刻まれ、在学中私が感じていた威厳は次元の高い高潔な内容であり、抱擁力のスケールの大きさを身近に感じる雰囲気の中で制作を続けております。
そのような先生の表現にますます要求するものは高く迫り、追従できぬ腑甲斐なさは、持つヘラも思いにならない始末です。
かって若かりし頃、スポーツマンであった先生は今なお首から頭に、そして体躯に連がる線の強靱さは、さながら古武士を見る如く無駄がない。それをそのまま造れば肖像彫刻としての本質が求められるはずなのだが……。
似ることに意味を探したくなるものより、もっとも先生らしい裏付を探すことがこの胸像のポイントと思います。
20年来彫刻を試み多くの問題も越えて来たつもりですがここに至り、まったく大きな壁と直面した感じです。
私の制作が新築の充実した図書館内に置かれる光栄もさることながら、その責任の重大さを痛感しております。
1968年9月23日
《堀川恭氏の略歴》
古賀先生の胸像制作にあたった、堀川恭氏(旧姓久保寺)は、母校第4回の卒業で、現在母校で教鞭をとっている富沢先生とは同級生にあたります。
現在氏はわが国彫刻界の中堅として活躍されている一方、愛知芸術大助教授として後進の指導にもあたっております。
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